モンキーハウスへようこそ

誰の役にもたちたくない

深海魚

別れの挨拶はもっぱら「さようなら」である。「さようなら」という言葉、語源はそのまま「左様ならば」であり、「そのようであれば(あなたがもう帰らねばならないのならば)、この辺で別れましょう」という意味だ、という話を聞いたことがある。
これに対し、英語の“good bye”は元々“god by with you(古語ではye) ”であり、「神があなたと共にありますよう」と相手の幸せを祈ったものが語源だ。どちらも美しい言葉だと思うが、good byeはもう私にできることはありません。後は神に任せます。と無責任に感じるのことを付帯するのはすこし怠慢だろ傲慢だろうか。

苛立ちの向くまま言葉をぶつけるのは嫌だったので、どこかでそれが消えるのを待っていたのかもしれない。夜中久々に雨が降っていて、黙ってその音を聞いた。朝にはやんでいて、いつもの交差点を曲がったら渋滞していたから、うんざりしながらトロトロ進み、5台の玉突き事故を横目に通り過ぎ、前を見ると道が広がってて曇り空がもう少しで陽の光に貫かれそうになっていて綺麗だった。自分の怒りや悲しみやらが雪解けのように晴れていくのがわかり、深海魚になってすべてを許そう(ダメにしよう)と思った。

昔口にすることが出来なかった言葉やセリフが随分と簡単に口に出るようになったのは、自分が軽くなったのか、言葉の重みがなくなったのか。多分前者で、それでも今でも口にするには憚れる言葉もあるので、人の言葉を借りて話したりしている。話す人間が軽ければ(軽いの定義は省くが)言葉は重さを失い、それはその人が生きてきた経験なのか、苦悩してきた時間がものを言うのか、受け取る人にとっての相手に対する想いがそうさせるのか。このブログを始めたのが5年くらい前かわすれたし始めた理由も確かあったきがする。ただこれを読んだ人(だれも読んでいないだろうが)がどうしようもない気持ちになればいいなと今でも思っていて、昔起きたことを今日の出来事にしたり、朝思いついたことを何年も信じたことのように位置関係を定めずに並べている。イギリス作家であるカズオイシグロが小説を書き始めた理由は「幼少期に過ごした日本での思い出を失いたくなかったから」だそう。レベルは全く違うが、私がブログをかく理由は記憶の復元を矛盾させたなにか。たばこをいつしか文章の行間のような会話の間を埋める為に吸い始めたのに、いつのまにかただ人のいる場に持って行き火をつけるのが常習となっていて依存しはじめ火をつけ吸い煙を吐く煙を吐く煙を吐く。自分の中のルールが少しずつ崩壊しいく。人にはスタンダートと呼ぶものがあり酒の飲み方や、タオルのたたみ方、本の並べ方だとか爪の切り方だったりそういった生きて行く上で全く必要としない人間各々の意識と無意識に象られた核が落ちこんだ時助けになります。私のそういうぐちゃぐちゃに固められた泥だんごのような規律が徐々に崩れひび割れその隙間から感情がこぼれ落ちそうになったが私の中には強固な哲学がいるので大丈夫。自分の人生から退場したと思っていた人がドラマチックに復活したり。思い通りになることなんてなにもないのかな。名前なんかつけず遠くに離れた場所に置いてある関係がある。これは大切にとっておくフリをして、冷蔵庫の奥に、自分もわからないようにしまっているだけ。名前のついてない距離は、なにか禁忌でなにが許されているのか。だれにも判断はつかない。ルールが無く、法律はない。膨大に横たわる夜の時間を、何度も寝返りをうちながら誤摩化すこともできずに過ごしたことはありますか。そういった関係をどこかに置いてきて、取りに行こうともせずに、時間が経って、いつのまにか変わってしまう。だから私は皮肉をこめて名前をつけることにした。good bye(神があなたと共にありますように)神様はいる、いるけどお前を救う義理が無いだけ