モンキーハウスへようこそ

誰の役にもたちたくない

寄り道

ひとつのことにハマるとそれ以外のことを話したくなくて、というよりか、極端に不器用なのでハマったこと以外のものをインプットをしないので、アウトプットするものがありませんから、そのこと以外話せない、話すことなど無い。お酒にハマれば酒屋を巡り、本にハマれば書店をさまよい同じ作家者を漁るゾンビですので、そういうのを誰かと共有したいなどという心がないからやはり話すことなど不可能だ。人にハマればどうなるのだろうか。死体に興味はないので、本や酒は楽なもので、書き終わったもの完成されたもの(どういう飲み方をするかは別だが)が店頭に並んでいるものをキャッチフレーズだとかポップだとかにごまかされただ受け入れる。あれは嫌い、これは好きと理屈もへったくれもなく、受けいれ続け勝手にカラダが取捨選択していったらこんな人間が出来上がった。便利な世の中だ。

犬の散歩にいくのですが、犬を飼っていて、歩いて今日はあっちに行ってみよう、こっちは久々などとぶつくさ思い、めんどくさくなってある所まできたら来た道をそのまま戻る性格なのですが、極端に犬の歩くペースが遅くなる。遠くの道を、本来歩くコースだった道を見つめこっちを向いて下を向く。ごめんね、気が利かなかったね。とぼやいた。私達は効率性を求めて、あるいは無意識の抑圧によって、常になにかを省略して語る。犬とっての散歩がそれで、だからこそ「語られていない部分」を想像で補う努力がいる。つまりある種の愛情がいるんだと思いました。

いま両手にあるものを背負っているものを他の人からしたらちっぽけなものかもしれんが、手放せたら、まだ間に合うのだろうか。不誠実や社会体、理屈など全部こっちに置いて、戻って来ても全部はもう拾いきれない背負いきれないだろうと思い、人に会いに行くことを決めて、積んできた人生の帰結と将来の可能性が目の前にあり、自分の手元に具体的な形で(悪魔の姿をしていた。)身も蓋も無い物言いだが、人生のある地点の大きな醍醐味のひとつだと思った。私がいままでしてきた決断のことを思い、取り返しのつかないものを失うようなことや、今思えば失敗したな…と思うような決断もある。でも不思議と何も後悔しておらず。今が楽しいからでしょうか。なにも考えなくなったからだろうか。後悔していることもあり、勇気を出さなかったこと、リスクを取らなかったとか、そういうことではなく、自分のいちばん欲しいもののことを考えずに、決断から逃げてしまったことの後悔は、ずっと心の片隅に残っていて。チャンスとリスクがあり、チャンスは歳を追うごとに逃げてゆき、リスクは日を追うごとに増大する。しかも、他人の人生まで巻き込んでしまう。「もしも、あのときあの選択肢を採っていれば」という非現実的仮説に立って「もしかすると起きたかもしれないこと」を想像するというのは、今ここにある現実を理解する上で極めて大事で、来た道をそのまま戻るという選択は自分の老いによる無情や身勝手を示しているのではなかろうか。
「いちばん欲しいものは何か?」自分にそれを問いかけます。いちばん欲しいものは何ですか?そのために何ができますか?

 

 

「たえず何かを隠し、装い、偽り、改め、彼女をご機嫌にさせておき、落ち着かせ、絶えず愛を示し、彼女の嫉妬、彼女の苦しみ、彼女の夢より告訴され、有罪と感じ、正当性を証明し、謝らねばならなかった。この苦労が今や消え去り、美しさが残った」

「存在の耐えられない軽さ」