モンキーハウスへようこそ

誰の役にもたちたくない

反魂香

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嫌味じゃない、来客があることをしらせるようにしずかな香の匂いがしてきたので、出かけることにした。度数の高いアルコールを飲んだときの、喉が灼けるような強い日差しに辟易としました。家からわりと近く、車の中の熱気がエアコンに冷やされるのもまたずに着くところに喫茶店があって、最近はもっぱらそこで時間を過ごしています。なぜか客入りが非常にいいのが不思議。コーヒーの味の善し悪しなどはなから分からんし、アイスコーヒーはバカみたいに氷の入ったものではなく、球状の氷がぽつんと一つ入っていてはなに付く。アイスコーヒーとは冷えた(或は冷える)飲み物ではなかったのか。イスの座り心地が特別いい訳でもない、目当ての店員や客が居るもいない、クーラの調整が居心地のいい訳ものではないし、勝手に演奏するピアノの音はうるさい、閉まる時間も早い。ただ家から近いだけ。口を開けば文句しか出てこない矮小なことである。それでも足蹴にその店に通うのは一種の自分に対する懺悔ではないのだろうか。

 

ふと顔をあげると夕立が降ったことにも気づかないくらい、読書に集中していました。くらだない知識を、くだらない頭に押し込めて、また少しくだらなさが増した人間になりました。水をすくってもぼたぼたとこぼれおちてしまって、手に張り付いた水滴を大切に舐めるような、貪るような本の読み方をしている。一冊の本を集中して読むことができず、数冊同時に読むのは学生時分から。小林秀雄さんの「読書について」でも同じようなことを言っていた。一冊の本を読み終わるのを待って、次の一冊に取りかかるほど悠長さはないが、ある小説の1ページの表現に立ち止まることがある。その場面が、台詞が自分がまさに体験したことと同じくらい実感できるまで想像することは、その作者と対話することである。そのページに作者がまさに言いたいことであり、作者という人間が見えてくる。のではないのかとぼーっと考えてました。

 

携帯のちゃりんという音とバイブの振動があって、画面が光る。1つの関係の終わりを短い文字が表示していた。アイスコーヒーの氷は音も立てず溶けきって、小さな泡がいくつか浮かんで身を寄せあっていた。成る程と、いろんな感情をぬるいコーヒーと一緒に飲み干しました。

帰りにツタヤによって、商品がないので探してくれと店員に頼んで15分くらいまってみに行ったら、商品を棚にもどす仕事をしていました。商品はあったのかと聞いたら、ありません。といってきたので、そうか。といってなにも借りずに帰った。家に帰ったら香の匂いがまだ残っていて、うるさく体に纏わりついた。