モンキーハウスへようこそ

誰の役にもたちたくない

役割を与えられた風景

GWに実家に帰省。もうすでに次の犬を飼うという話がでていた。

最後を庭のサクラの木の下でむかえたと聞きそこに線香をたて、彼が過ごした13年間と魂の残痕を探しながら家の周りを歩いた。父にとってどこかの段階で愛犬はその役割を終えていたのだろうと思った。人によって心の準備の仕方や時間が違う。だから母にとっての父の決断の早さは困惑したのだろう。

小屋やゲージ、人工芝が過去、先代がいたときの時間を塗りつぶすかのように新しい犬のためにこさえられていた。それは悲しさを乗り越えるためだったのか、ただ寂しさから逃れるためなのか。新しい役割を持たされた庭にはまだかすかになにかを伝えようとしていたかのように見えた。

 

待ち合わせで相手を見つけるのがとても苦手。目の前にいても気づかないし、町中で知り合いとすれ違っても自分から気づくことはない。街にいる雑多な人、ひとりずつに人生があり目的があると思う。だけど私とは関わりがないものはすべてただの景色に写る。知り合いだろうが、約束の待ち合わせ相手だろうが、自分が認識するまではそれは存在しないと同じ。

それになれた人はいつも同じ場所に立っていてくれる。私がちゃんと見つけられるように、自分の役割を分かっているかのように。

角を曲がった先は自分がいなくても普通に世界は存在しているか。自分が曲る瞬間まで世界は存在していなく曲がったときに世界は創造されるか。という話があります。

後者的な考えで、自分と関わった瞬間からそのものや人は役割をもたされる。道や車、信号が連鎖的に役割をもたされているように。

夜景やイルミネーションに感動しない性分で、それは心が死んでいるからではなく、無理矢理もたされた事象に心が反応しないから。用意された感情、言葉、行動を掛け合わせてコミュニケーションをはかります。まるで人間の真似をするかのように。映画をみるのも、本を読むのも。語彙をふやして、感動の巾を広げて、何度も何度もシミュレーションしてパターンを増やす。幾度も使い古された行動パターンは感情が失われていかず、より洗練サレていく。涙がでるのは瞬間的に処理しきれなかった場合か、用意できていないパターンだから。自分が心を失って、目的もわすれ、なんのために生まれてきたか分からなくなるまえに、私を見つけて下さい。

 

安定しきった人間関係がきらいで、定期的に壊したくなる。そしてまた1から崩れたものを組み立て役割を与える。そうやって血液や細胞のように感情の循環をさせる。神のようでおこがましい行為だなと思いました。

今住んでる町は好きでも嫌いでもなく、ただ住むには便利だなと思う程度。この時期になると町の祭があり、屋台がでて、一日中太鼓とドラの音が鳴り響く。普段無関心な町がすこしだけ牙を向ける。この町にとって役割をもたない人間はその日だけよそ者なんだなと感じ、すこしだけ寂しく感じる。1年に1度町にとけ込んだ自分自身という景色を壊してくれるこの町が気に入ってる。